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エリヤハウスのおかしな祈り

エリヤハウスのおかしな祈りを紹介いたします

ロブ・モリセット著「根にふれて祈る」よりの引用

 

仕事で上司にやり方を怒られるラルフ

 

自分がするように言われたことをきちんと済ませたと思っているのに、問題とされた。その多くは上司が彼にはっきりとした指示をだしていなかったことが原因であった。このパターンが繰り返された。
祈りの中で、ラルフは自分がこのように感じたのはいつからなのか尋ねた。

 

主は、彼が子供の時、父親に芝刈りを任せられたときのことを思い出させて下さった。父は、ラルフが機会の使い方を知っているものと思い込み、充分な指示を与えずに仕事をさせた。以後ラルフが機械を動かせずにいたら、父は動かし方を教えてくれず、ただラルフにいらだった。そして、芝刈りが終わるまでは、他のことを一切させてくれなかった。

 

「誰も自分にやりかたを教えてくれない。自分で全部しないといけない。他の人が私に教えてくれるべきことを私が知らないという理由で、いつも自分が責められてしまうのだ」という誓いをもってしまっていた。その誓いを破棄する決断をした。そして状況は改善した。
239ページ8行−242ページ10行

 

 

妻が流産したのに、失ったこどものことを悲しめなかったジョー

 

妻が流産したのに、ジョーは悲しめなかった。

 

それで、主イエスに悲しめなかった過去の体験を示して下さるように求めた。すると、子供の頃に犬を飼っていた時のことを思いだした。

 

その犬が死んだ時、父親はそれをゴミ箱に捨てた。父は、数日経つと新しい犬を連れてきて、誰も死んだ犬のために悲しまなかった。

 

死んでしまった犬を見せてくれず、埋めることもさせてくれなかった父に対する怒りが込み上げてきた。

 

自分は、死んでしまった犬を捨てられ、さよならも言わせてもらえなかったことで傷ついた。そして、「自分の感情なんて価値がない」「泣くなんて価値がない」という偽りを信じていた。それで、妻が流産したのに悲しめなかったのだ。ジョーは、自分が信じた偽り(自分は価値がない、泣くことは価値がない)を放棄しますと主イエスに祈った。

 

そうすると、失った子供のことで悲しめるようになった。
255ページ8行―259ページ6行

 

 

仕事を早くできないフラン

 

仕事の質を落とさずに早く仕上げることができなかった。
主は、フランが6歳の誕生日の日を思い起こさせて下させました。
プレゼントとしてテレビ番組に出演させてもらったのですが、忙しく、期待していた番組はあっという間に終わってしまった。
もっとゆっくり時間を楽しませてもらいたかったという願いを残してしまった。

 

この大きな失望感から、「私はもう二度と決して急いだりしない」という決断をした。

 

誕生日の日、どんなに心が傷ついたかを主イエスに申し上げた。彼女をがっかりさせた人たちを、赦していった。
最後に「もう二度と急がない」という決断を破棄した。

 

仕事の質を落とさなくても、かなり早く仕事ができるようになった。
259ページ7行―261ページ15行

 

イエスの胎児

「イエスのまなざし」高橋めぐみ著よりの引用  長文ですので要約を紹介いたします。

 

エリヤハウスの学びで「胎児期と幼少期の問題」について学んだ。
その中で強調されたのは、「重要なのは、胎内で、あるいはその後に起こった出来事ではなく、それらの人生経験に対する自分自身の反応」であるということでした。・・・「胎内で受けた傷に対して誤った反応を取った(胎内で怒った)子どもが、後になって胎内での罪の結果を刈り取ることになる」ということでした。私は89歳になる母の口から私の受胎前後に何が起こったかを直接聞いていて本当に良かったと思う。私は、間違った性別として生まれ(男の子が欲しかったのに女で生まれた)、望まれない妊娠であった。講義を通して、私の霊は愛されるためにがんばらなければというパフォーマンス志向に陥っていたと自覚できた。
グループタイムの時、私は自分の出生についての一連の出来事を語った。「祈りましょう」とバルナバさん(ミニストリーでの相談役の名称)のY牧師が促してくれ、しばらくの聖霊の導きとあわれみを待ち望む中で、Y牧師がこう尋ねた。「胎児のめぐみちゃんは、何を叫びたいの」私は、「私を見捨てないで!1人にしないで!」バルナバさんが祈りながら、さらにこう聞きました。「イエス様はどこにいますか」すると。途端に私の目の前に不思議なピクチャーが浮かんできた。それは、胎児の私が、イエス様のお腹の中にいる光景だった。イエス様が身ごもっている?男性であるはずのイエス様が?・・・

 

しばらく黙っている私にY牧師が聞きました。「何が見えますか」私:「あの・・不思議なんですけどね。ちょっとおかしいんですけどね。私はイエス様のお腹の中にいます」Y牧師:「そこでめぐちゃんは、どんなことを感じているの」私:「私はあんぜんです。すごく安全だから。安心しているの」

 

Y牧師「お母さんのことはどう思いますか」私:「お母さんは正直だったと思います。母は私を産んでからはちゃんと責任をもって育ててくれました」

 

そう返事をすると、私の心から母に対する怒りや憎しみが「スーッ」と消えていくのが感じられました。母を赦し、受け入れることができたのです。そして母を赦す祈りをした。

 

ああ、たとい母がどのような思いで私を産んだとしても、私はイエス様によって神の子どもとして生まれたんだなあ。神の子供だから、何があっても絶対安全なんだな。・・私は今まで何かにつけ、他人の批判や反対のことばを極度に恐れる傾向がありました。・・わたしがこのように恐れてきた(拒絶と感じてしまった)のは、胎児の時に「拒絶された」と反応したために、その恐れを大人になるまでかかえていたからだということに気がついたのです。

 

私の心の中にいた“胎児の私”がこう叫んでいたのでした。
「私を殺さないで!・・私は意味があっていのちを与えられたのだから、それを認めて!」ああ聖霊様、このことを示してくださって感謝します。

 

 

 

これらの祈りが聖書的なものかどうかについて、コメントは控えさせていただきます。読者の方々の公正な判断にお委ね致します。